みなさま、こんにちは!
アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)の絵が好きな方はとても多いと思います。
私もミュシャファンの1人で、これまでに展覧会を見に行ったり、考察本を読んできました。
2017年に新国立美術館で開催された展覧会「ミュシャ展」では、祖国を想い描いた連作『スラブ叙事詩』20作品すべてが展示されました。
最初作品『原故郷のスラヴ民族』の大きさは、610cm x 810cmという、とても大きな作品で、迫力に圧倒されました。
展覧会では、『スラブ叙事詩』と併せて、ミュシャという人物を知る背景の中でミュシャがデザインした切手が展示されていました。
1918年にチェコスロバキアが建国されて初めての切手デザインを担ったのがミュシャでした。
今日は3cm x 2cmの小さな空間に込められた想い、アルフォンス・ミュシャの切手デザインについてご紹介します。
アルフォンス・ミュシャについて
アルフォンス・ミュシャのプロフィール
アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha )は、1860年7月24日オーストリア帝国領モラヴィア(現在のチェコ共和国東部)のイヴァンチツェに生まれました。
「ミュシャ」という表記はフランス語の発音で、チェコ語の発音を邦訳すると「ムハ」だそうです。でも「ミュシャ」の方がしっくりきますね。
チェコといえば、カレル・スヴォリンスキー(Karel Svolinsky)は、ミュシャの36年後、1896年にモラヴィア中部、現在のオロモウツで生まれました。同郷なのです。
カレル・スヴォリンスキーについてはこちらもどうぞ。
19歳の時にウィーンで舞台美術の仕事を始め、1895年にサラ・ベルナールのために描いたポスター『ジスモンダ』が出世作となりました。
1896年に『四季』、1897年に『ビザンティン風の頭部(ブルネット)』などの装飾パネルを手がけ、パリでは本の挿絵としても活躍しました。
米国の富豪に資金援助を受け、1910年にチェコに帰国『スラブ叙事詩』の制作に着手します。
『スラブ叙事詩』は、完成までに20年を要しました。
スラヴ叙事詩(スラヴじょじし、チェコ語: Slovanská epopej)はアルフォンス・ミュシャが1910年から1928年にかけて手掛けた壁画サイズの一連の作品です。チェコおよびスラヴ民族の伝承・スラヴ神話および歴史を描いた全20作品から成り、サイズは小さいものでもおよそ4 x 5メートル、大きいものでは6 x 8メートルに達します。作品は溶剤に卵を使ったテンペラを基本とし、一部には油彩も使われています。全作品が完成した後、1928年に特設の展示場を用意することを条件に、作品はプラハ市に寄贈されました。2012年以前はチェコ共和国、南モラヴィア州のモラフスキー・クルムロフの城館に展示され、2012年以降はプラハ国立美術館のヴェレトゥルジュニー宮殿(見本市宮殿)1階に展示されています。《引用:Wikipedia》
ミュシャは1939年7月14日に78歳で逝去します。79歳の誕生日の10日前です。
戦争と当時の政権の影響でミュシャの存在は影を潜めますが、1960年以降のアール・ヌーヴォー再評価と共に世界中に人気が広がりました。
アルフォンス・ミュシャの切手デザイン
ミュシャ、最初の切手
1918年、58歳の時に記念すべきチェコスロバキアの一番切手をデザインします。
チェコスロバキアでは1918年10月28日の独立宣言後も暫定的にオーストリア=ハンガリー帝国の切手を使用していました。
新政府は独自の切手を発行しようと、当時画家として成功していたミュシャにデザインを依頼します。
ミュシャは切手のデザインを無償で引き受け、1918年12月18日にチェコスロバキアとして、そしてミュシャとしても初めての切手が発行されました。
12月18日は以降もチェコスロヴァキアとその後のチェコでは「切手の日」となり、毎年記念切手が発行されています。
国に予算が少なかったこと、切手の印刷技術が低かったことから、当初は刷りムラがあり、はっきりしない仕上がりになっています。
また、断裁不良も多く、余白の大きさがそれぞれ異なっていますが、左下に「MUCHA」の文字があります。
上の写真、下の段は「新聞切手」で、新聞の郵送料金を払う際に使用されました。
ミュシャが選んだモチーフ
ミュシャが普通切手のモチーフに最初に選んだのはプラハ城の風景です。
プラハ城は当時の政治、文化の象徴的存在でした。
中央にある象徴的な建築は「聖ヴィート大聖堂」です。
新聞切手のモチーフは、スラヴ民族の連帯を象徴する鷹(タカ)です。
1919年2月1日から発行された「DOPLATIT(=追加料金)」という文字がある切手は「不足料金切手」です。
国の木である「スラヴ菩提樹」がモチーフです。ハート形の葉が特徴です。
3段目右2種は「速達切手」で、平和のシンボルの鳩がモチーフです。
どちらもアール・ヌーボーデザインの影響が見えます。
変化していくミュシャの切手デザイン
プラハ城のデザインをよく見ると、1918年の発行当初「聖ヴィート大聖堂」の背景の右側に太陽が描かれていました。新しい国家の独立を祝う意図が感じられます。
ですが、太陽がこの位置にある=北にあるということが、事実と異なるということがわかり、1919年3月14日発行まではあった太陽の描写は1919年4月10日発行からなくなっています。
1919年-1まではプラハ城の前に大きな木がありましたが、1919年-2の切手からは木がなくなり、そして、また復活します。
国名の「CHESKA SLOVENSKA」の配置も最初はたて書きだったものが、横書きになったり、白抜き文字になっていたり、プラハ城の風景も次第に細密になっていくなど、さまざまな変化があり、その違いを探して、考察することも切手蒐集の楽しみですね。
祖国への想い、フス教徒の切手
1920年6月5日と6月10日に、プラハ城シリーズに次ぐ2代目の普通切手「フス教徒」が発行されました。
プラハ城の偽造切手が大量に出回ったため、新しいデザインで発行したのですが、カトリック教会からクレームがついたため、2種だけの発行で短い期間の切手になりました。
フス教徒はフス派の象徴の聖杯を持っていて香炉の煙も表現されています。
1921年以降はミュシャの新しいデザインはなく、加刷という文字を上に印刷する形で使用されました。
復刻切手で見るミュシャのデザイン
1995年1月20日発行の切手『切手製造の伝統』シリーズです。ミュシャの新聞切手がモチーフになっています。
1918年から100年後のチェコから、ミュシャのデザインを復刻した切手が発行されました。
2020年にもプラハ城モチーフの切手が発行されています。
額面は現在使用しているAとB、年代も印刷されています。
あれ?MUCHAの文字、オリジナルは左下なのに、なんで右下にしたの?と小さな疑問です
スロバキアからは1918年12月18日から100年を経過した切手の日にプラハ城の切手が発行されました。
ミュシャの肖像がタブについています。
現代の印刷技術でプラハ城のデザインがよくわかりますね。
ミュシャが祖国のために手がけたこと、その他
ミュシャは切手の他に紙幣のデザインも手がけました。
10コルナに描かれた少女は、ミュシャの娘、ヤロスラヴァをモデルにしています。
ミュシャは切手、紙幣、国章、警察官の制服などをすべて無報酬で引き受けました。
国家の発展を願い、祖国を愛する気持ちで丁寧にデザインするミュシャの様子が浮かんできます。
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今回はミュシャがデザインした切手をご紹介しました。
次回はミュシャの作品がモチーフになった切手をご紹介したいと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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